株式会社ソフィス

株式会社ソフィス - ソフトウェアの設計・教育・実装

本当に必要なものは何ですか?
本当に必要としているものは、当人にもよく分からないのかもしれません。
「株式会社ソフィス」は本当に必要なものを一緒に見つけ、
本当に必要なものを創る「ソフトウェア設計事務所」です。
               
       

プログラマーの朝礼

【4月の名言】あなただけができることをやりなさい

株式会社 ソフィス (2023年4月10日 12:44)
あなただけができることをやりなさい ( Only do what only you can do. )
エズガー・ダイクストラ ( Edsger Wybe Dijkstra )

 ダイクストラと言えば「GOTO有害説」で有名な人物です。彼は、1968 年に執筆した「Go To Statement Considered Harmful」 の中で、GOTO文の使用は避けるべきであるとの持論を展開しました。この「GOTO有害説」は、後の世の研究者やエンジニアに多大な影響を与える事になります。また、彼は、最短経路問題の「Dijkstra法」や、排他制御の「セマフォ」の考案者としても知られている人物です。

 最近の若い人に「GOTO文」と言っても「ピン」とこないかもしれません。ダイクストラは、プログラミングがまだ「職人芸」だった1970年以前から、ソフトウェアの品質に関する観点に着目し、プログラムからGOTO文を排除すべきであるとの考え方を示していました。この「GOTO有害説」こそが、「構造化プログラミング」への潮流を生み出したと言っても過言ではないでしょう。そして、「構造化プログラミング」は現代主流の「オブジェクト指向プログラミング」へと引き継がれる事になります。

 ダイクストラは、テキサス大学の記念講演の中で、若い研究者に対して:

「あなただけができることをやりなさい」

と説いたそうです。誰かから聞いたような文句ですが、ダイクストラが言ったからこそ重みがあります。同じ文句でも真に尊敬する人から聞くとその重みも違ってきます。ダイクストラは当時流行だった「人工知能」の研究などに目もくれず、ひたすら現実のプログラミングと対峙し、その基礎研究に従事した人物です。

 「敵を知り己を知れば百戦危うからず」と言いますが、己を知るには少しコツが必要です。でも、そんなに難しい事ではありません。客観的に自分を知るには、頭の中で考えているだけではだめです。実際に紙に自分の経歴、経験、出会いなどを、子供の頃から記憶を辿り、できるだけ正確に書けば良いのです。そうする事で、自分の資産や能力を棚卸しする事ができます。

 己を知れば、自分だけができることが見つかるかもしれません。でも、私のような凡夫には「あなただけができること」は見つかりません。そこで、少し言葉を変え「あなたができることだけをやりなさい」とすれば、だれにでもできるはずです。随分、志(こころざし)が低くなったと思われるかもしれませんが、現実主義者であるダイクストラの思想は引き継いでいると思います。彼のこの言葉は、流行(はやり)に囚われることなく、現実の問題を1つ1つ解決して行く事こそが成功への近道だと教えてくれているのです。

聖なる好奇心

株式会社 ソフィス (2022年12月5日 9:20)

 アインシュタインの残してくれた言葉の中に「 a holy curiosity ( 聖なる好奇心 ) 」と言うのがあります。いささか難解な考え方ではありますが、そこは読書百篇、説明を読んでいるとなんとなく見えてきます。以下がその「聖なる好奇心」についてのアインシュタインの記述です。

《聖なる好奇心》

 あなたのしていることの理由を考えるために立ち止まってはならない。なぜ自分が疑問を抱いているかを考えるために立ち止まってはいけない。大事なことは疑問を持つことを止めないことだ。好奇心はそれ自体で存在意義がある。

 人は永遠や人生や、驚くべき現実の構造の神秘について熟考すれば、必ず畏怖の念にとらわれる。毎日この神秘のたとえ僅かでも理解しようと努めれば、それで十分である。聖なる好奇心を失うな。

 成功する人間であるよりは価値ある人間になろうと努めよ。今日では人生に自分が投入した以上の見返りを得る人間が成功者と見なされる。しかし価値ある人間とは、(他人から)受け取るよりも多くのお返しができる人のことを言うのである。

 「聖なる好奇心」とは何か。これこそが、震災以降の日本人に必要な考え方ではないかと思います。科学の目的は自然を制御し成功を得ることではありません。自然の神秘を解明し、自然に畏怖の念を抱かせる事が科学に求められていることではないでしょうか。

 もうすぐクリスマスイブ。「聖なる夜」に「聖なる好奇心」について考えてみてはどうでしょうか。

山本五十六に学ぶ現場の教育

株式会社 ソフィス (2022年11月1日 9:45)

 以前、楽天の野村前監督が

財を残すは下、業を残すは中、人を残すは上

と言っていました。この言葉の出典は、誰だろう?興味を持ち調べて見ました。それは、後藤新平でした。彼は明治~昭和にかけて生きた政治家ですが、満鉄の初代総裁を勤め、国内の鉄道整備に大いに貢献した人物です。彼は、また、拓殖大学学長やボーイスカウト日本連盟の初代総長を勤めたりしていました。このことからも後藤新平の人材教育に対する思いが伺い知れます。

 野村監督や後藤新平の言葉を引き合いに出すまでもなく、人材教育の重要性は誰しも分かっている事と思います。特に、部下を持つ上司や子育て中のお母さんは、切実な問題として教育の難しさを痛感されている事でしょう。そして、

  • どうしたら上手に教える事ができるの?
  • どうしたら自分の事、聞いてくれるの?
  • そもそも、「教える」ってどうゆう事?

などの声が教育の現場から聞こえてきます。

 私は、これらの答えを、山本五十六が残した言葉の中に見つけ出しました:

やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、褒めてやらねば、人は動かじ

この言葉を聞いて「身につまされる」思いがするのは私だけでしょうか?この言葉を聞いただけで、山本五十六の教育に対する苦心が計り知れます。生死を賭けた実戦部隊の長、連合艦隊司令長官の彼をしてこのように言わしめるのですから、教育にとって、「褒める」という事は本当に大切な事だと痛感させられます。「褒める」「任せる」「信頼する」は皆「やる気」の源(みなもと)ですから。

 ちょっと待って下さい。でも、何を褒めるのですか?結果ですか?でも結果に失敗していたら何を褒めるのでしょうか? ・・・ と疑問が残ります。実は、「褒める」のは結果でなく、「させてみせて、した事」を褒めるのです。結果が成功しても失敗しても、「よくやったね!」と褒めます。仮に結果が失敗していても、それは教え方が悪かったのかもしれないからです。この認識は特に重要です。この場合、指導者はもう一度「言って聞かせて」の部分を再検討する必要があるのです。このような観点からも、「教育」とは本当に「共育」だということがよく分かります。

 改めて、山本五十六の残してくれたこの言葉に感謝です。

「習う」と「学ぶ」

株式会社 ソフィス (2022年8月29日 10:20)

 もう随分と前の話になりますが、愚息が小学校の担任の先生に「〔学ぶ〕と〔習う〕はどこがちがうの?」と質問したことがあります。と言うのも、小学校の校歌に次の一節があったからです。

 ・・・
誠捧げて共に学び 共に習う
日高 日高 楽しき我が故郷
 ・・・

その担任の先生は、「〔習う〕は人のことをまねする事」「〔学ぶ〕は自分で勉強する事」と教えて下さったそうです。内心、本当に良い先生に担任になってもらって良かったと思いました。素晴らしい教え(言葉)です。

 通常、○○教室の場合、「○○を習いに行く」と言います。そろばん、習字、英会話、パソコンなどが代表格でしょうか(いわゆる、習い事です)。では、このような場合、なぜ「○○を学びに行く」と言わないのでしょうか?「そろばんを学びに行く」と言う子はいませんよね。この表現だと、何かそろばんの歴史や構造を勉強しに行くように聞こえます。

思うに、息子の担任の先生がおっしゃったように、人に「習い」、自分で考えこれを「学ぶ」。これが勉強の基本かと思います。「習う」とは手本となる人がいて初めて成立する行為であり、「学ぶ」のは自分一人でもできます。ただ、一般には、

(学ぶ) ⊃ (習う)

と言う関係があり、「学ぶ」は「習う」も含んだ表現だと思います。

 プログラミングの格言に、次のようなのがあります:

「可能な限り、コードを盗め」
Whenever possible, steal code. -- Tom Duff

既にあるものは可能な限り使うべきです。先人の書いた偉大なコードは大いに再利用すべきです。

プログラミングに挫折した方、「学ぶ」ことだけをしてませんでしたか?人に「習い」ましたか?まずは、先輩や先生に習って、最初のうちは、徹底的に人まねをしましょう。自ら創造するのはその後でも遅くはありませんから。

激流を渡る

株式会社 ソフィス (2022年8月1日 10:06)

 私は以前から仏教の守護神である八部衆の一人、阿修羅(あしゅら 又は あすら ともいう)が好きで、奈良興福寺の国宝館に何度か阿修羅像を見に行っています。

 少し前になりますが、平城遷都1300年の折に国宝館に行った時、阿修羅の事に調べる機会がありました。どうやら原始仏教の世界に入らないと阿修羅の真の姿は分からない様子で、テーマが深くなりそうそうですが、「サンユッタ・ニカーヤ」からはじめなければならない事が分かりました。「サンユッタ・ニカーヤ」とは、「主題ごとに整理された教えの集成」と言う意味で、原始仏教の経典です。わたしは一気にこの古典を読みふけりました。

 「サンユッタ・ニカーヤ」では、ブッダが神、悪魔、精霊、修行僧、仙人、尼、長老などと対話をする形式で話が進んでいきます。ですから、途中で深く考えなければ、普通の読み物として読んでいけます。でも、随所で、「どきっ!」とする箇所が現れます。そして、「どきっ!」とする箇所はいきなり現れます。

第一章 葦 第一節 激流
「きみよ、あなたは激流をどのようにして渡ったのですか?」
釈尊「友よ。わたしは、立ち止まることなく、あがくことなしに、激流を渡りました。」
「きみよ。では、あなたは、どのようにして、立ち止まることなく、あがくことなしに激流を渡ったのですか?」
釈尊「友よ。わたしは立ち止まるときに沈み、あがくときに溺れるのです。わたしは、このように立ち止まることなしに、あがくことなしに激流を渡ったのです。」

 激流とは何か。世間だとすると。「立ち止まることなく、あがくことなしに世間を渡る」となりますが、なんにでも当てはまりそうです。勿論、ソフト開発にも。「立ち止まるから沈み、あがくから溺れる」。阿修羅に興味を持ったところから、思わぬ古典に出会う事ができました。興味のある方は以下をご覧下さい。

ブッダ神々との対話 ― サンユッタ・ニカーヤ1 (岩波文庫 青 329-1)
ブッダ悪魔との対話 ― サンユッタ・ニカーヤ2 (岩波文庫 青 329-2)

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